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help リーダーに追加 RSS 九里半街道・鯖の道と保坂、今も昔も・・

<<   作成日時 : 2008/07/23 22:02   >>

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滋賀県高島市今津町今津と福井県小浜市を結ぶ「九里半街道」
は、江戸時代、蔵米や四十物(あいもの)(干魚や塩魚の荷物)をはじめとした日本海沿岸からの荷物を運搬する重要な通路でした。

小浜に集められた荷物は、馬や人の背で、まず、九里半街道の中ほどに位置する熊川(上中町)まで運ばれます。
ここで人馬が交代し、次に今津までの荷物輸送にあたったのが、今津町内の「街道筋十六ケ村」の人々でした。この「十六ケ村」というのは、西から上大杉、天増川、山中、途中谷、保坂、角川追分、北生見、南生見、藺生、上弘部、下弘部、弘川、大供、新保、今津の各村で、それぞれの村や個人が所有する牛馬などを使って街道稼ぎをしていたようです。

明治2年(18969)に記された上弘部村の「村鑑帳」には、村の作間稼ぎ(収入を得るために農業のあいまに従事する労働)として、熊川から今津までの荷物運びなどがあったことが記されています。

ただこの荷物輸送は誰にでもできるというわけでなく、「馬札」「背持札」と呼ばれる札を持っていなければなりませんでした。
熊川宿残る「御用日記」寛保3年(1743)の記録には「馬札」を使用した人の名前が記されています。村別にみると山中3人、上大杉4人、追分3人、方(保)坂1人、今津3人、上弘部2人、生見3人となっており、街道筋の人々」が荷物運びにかかわっていた様子がうかがえます。

街道筋の村人にとって、この仕事の重要な収入源であったらしく、荷物の量や運搬の距離などをめぐって、若狭側の商人とたびたび争論が起こったという記録も残されています。


  <高島市今津町(旧高島郡今津町)町史から抜粋>
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今も昔も・・生活のための収入源には苦労がつきものの様です。

高島市内には、この九里半街道、鯖街道、七里半街道・・などこのほか沢山の「道」によって生業が成立していたようで、現在でも物流の行き来が、生活の中でなくてはならないもので、今も昔も同じです。

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保坂は、古代より日本海諸国と畿内を結ぶ輸送路に位置し、多くの人や物がこの地を越えてきました。室町時代には関が置かれ、応仁の乱以降はこの関の権益を巡って、周辺の諸勢力による保坂の争奪が展開された。今津から保坂を経由して小浜に向かう道が、その距離をとって、「九里半(約38キロ)街道」と呼ばれるのもこの頃です。


江戸時代も中期になると、若狭湾の沖合で能登鯖が豊漁となり、多数の背持人夫によって京へ運ばれるようになります。鯖は魚のなかでも腐敗が早いため、運ぶときは、腹を開いて塩をして、夜通しで背負って行ったと言われています。

「鯖街道」と呼ばれる、かつての鯖が運ばれた道は、保坂を経由する以外にも、遠敷から分かれて根来坂を経て針畑へ至る針畑越をはじめとして、多くのルートがありましたが、熊川から保坂に出て、朽木谷を通って京に至る道が、沿道の整備状況からしても、最も利用されていたと考えられています。

今日でも、保坂の道標を起点に中の川を通ると、「小宮さん」と呼ばれる弁天宮や金比羅宮、7年に一度の例祭が催されるなど、「鯖の道」を偲ぶ史跡が区民の手によって大切に保存されています。


上記文章は<高島市今津町 保坂区にある案内板>から

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